持て余した霊感を使い果たすブログ

私が私の物語を創るように、あなたにもあなたの物語ができますように。苦しみも喜びもひっくるめて世界は美しいかもしれない!

ふぇあ。

小学生の時に配られる通信簿。


国語算数理科社会体育図工....いろいろな教科の評価の横に「人として」の評価を記す場所があった。「明るい」「リーダーシップ」「思いやり」....教科だけでは測ることのできない”人間的要素”を評価するものだった。



小学生ながら「浅はかな教育理論だ」と思っていた。○○市教育委員会の励まし程度の評価基準など子どもが一番に見透かすものなのに。そして何年生かの途中からその欄は消えていたように思う。



私には毎年、毎学期、必ず「公平さ」の欄に○がついていた。しかも◎だった。先生が毎年変わっても、必ず「公平さ」が評価されていた。



差別が嫌いだ。小学生の年齢でも、人は人を下に見たり上に見たり、平均値を探して安定する術を身につける。クラスメートがそんなことをしてお互いを傷付け合うのが大嫌いだったし、声にならない「不公平さ」をいつも心にグサグサと感じていた。



だから私は常に「公平」であろうとした。ジャッジの目を捨てることに長けていたし、「不公平」の空気があるところに、すかさず飛んで行っては仲介やら話し合いを行って、斜めになる天秤を真っ直ぐにすることを行った。



でも私は「公平」であることを望むことよりも、「不公平」であることを懸命に治すことが大事だと思っていた。



そして、「公平」にすることこそが「私」にしかできないことだとアイデンティティを確立していた。



私が初めて見た「不公平」は両親の間に生じていたそれだった。父にも幸せでいて欲しかったし、母にも幸せでいて欲しい。二人が「公平」でいるためには子どもの私の助けが一番の特効薬だった。




私の助けが「公平さ」を生む。父の涙、母の汗。それを笑顔に還元するためには、私は自分を下げてでも二人の「公平さ」を守ろうとした。



私が家庭内で生き残るためには、家庭の「公平」を生むために走ること。その時、私はうんと「不公平側」にいた。子どもの私は「公平」を望むにはあまりにも小さすぎた。



自分を「不公平」な場所に置きながら、他者に「公平」をもたらすことは思いっきりな不公平で、結局「公平」と「不公平」の区分は曖昧模糊なままになってしまった。



誰かが公平をゲットする時、誰かが不公平の道に入る。そんな矛盾があるとしたら、世の中はなんてアンフェアなんだろう。



それでも私はジャッジの目を持たない。善悪で判断したら、悪者とされる者の痛みが無視されてしまうから。



人は持ちつ、持たれつ。完璧な「公平」なんて無いのだから、私はやっぱり誰の味方にもならない、敵にもならない、最小限の「不公平」を目指してアドボカシーするのだ。


評価は×でいい。