電車と自意識🚃
ある時、電車の中での”あるある”の話になった。
まずは電車内での自分の好きな場所について。座席なら一番端っこ。立ちならドアの片隅、銀の棒がある箇所に意見が集中した。
上記の、電車内の好きな場所は多くの人が頷けるが、そのあとに続いた”電車内あるある”が、随分と少数の人としか共感しあえない類のものだと笑って感動した。
まず、自分の横に座る人が他の座席に移ったら「私(俺)の事が嫌だったんだ!」と思う。
自分の前に異性(年齢は問わない)が来たら、「私(俺)はあなたを意識してません!」オーラを醸し出す。
ドアの端っこに立った時は、全く何も考えていないような顔をする。「誰も見てないし、意識もしてないよ?」オーラを醸し出す。
窓ガラスに自分の顔が映っても、髪を直したりせずに、貼ってある広告をまじまじと見ることに専念する。
etc....たくさん挙げられたが、これらの意見で満場一致、日常の深い洞察と少しマヌケな行動意識に共感し合うことができて感動し、笑った。
昔から私は自意識が過剰である。故に、同じような仲間が集まりやすいのかもしれない。このように共感し合える仲間がいることは嬉しいし、感謝すべきことだが、実際に電車に乗った時は1人で自意識を操作せざるを得ないので、苦しい。
プライバシーの保護が叫ばれる現代において、電車とはその真逆に位置するものではないだろうか。
交通手段とは言え、知らない者同士が居合わせる独特な場所である。
知らない者同士が隣り合い、時には携帯電話の中を覗かれ、時には席を譲り合うコミュニケーションが行われ、時には満員だと無償で体温を交わし合うハメになる。
匿名性を帯びた個人が「最も容易に世界に関与できる場」であり、自意
識が過剰であればあるほど、私のような人間は自己の中で己の匿名性を隠すのに苦労する。誰も見ていないのに。
匿名性が色々な意味で暴かれて実存的個人に至ってしまうのは、電車内で出会ってカップルになる、という類の少女漫画的な話しかないのに。
「私(俺)は嫌われてるかも⁉︎」と思ったり「私(俺)は全然自意識過剰じゃないよー」と見せかけるのは非常に疲れる。なのに、私たちは他者を気にする。
自意識過剰については多くの知見や研究が行われていて、様々な文献があるが、多くはその原因や病理についてである。けれど、自意識過剰もそんな悪いものではないという些細な一面を示唆する論は無い。自意識過剰は他人と共有し合えた時は不思議な感動を広げる働きと、「この人もこんなこと考えるんだ」と妙な親近感を抱かせ、連帯感を生むことを、”電車あるある”で知った。
自意識過剰は結構苦しい反面、共感し合えたときに変なところで絆を深くするチカラを持っている、人間の内面に根付く不思議な意識である。